立ちあがろうとしたが、ズキン、と背中に走った痛みに邪魔された。
「やっばいかも・・・・・」
自覚した瞬間、痛みが強くなった。
ズキズキと疼く背中の傷が、ヴァユの不安と恐怖を増長させる。
・・・一体どの程度の傷なのか。
・・・・・このまま動いても大丈夫なのか。
ヴァユは怪我らしい怪我などしたことがない。
見えないから、余計に不安を掻き立てられた。
それでも、このままでは目の前の魔物に殺されるだけだ。
(大丈夫。絶対、大丈夫・・・・・・)
自分に言い聞かせて、しっかりと魔物を見据える。
立ち上がろうと動いた瞬間、魔物も動いた。
ヴァユはやっぱり動けない。
痛みに邪魔されて立ちあがることができないのだ。
「来るなっ!」
怯えを含んだ、震えたような声音で叫ぶ。
と、同時に。
まったく制御のなされていない風が周囲に吹き荒れた。
まだ幼いヴァユは、時たま感情の爆発に任せるままに魔法を暴走させてしまうのだ。
たとえ暴走と言えど、それはヴァユの意思を汲んだものであったのだろう。風は一点に収束して魔物に吹きつけた。
だがまともな制御のされていない風では、ほんの一瞬、魔物の足を遅くする程度の役にしか立たなかった。
魔物は何事もなかったかのように、ヴァユに向かって飛び込んでくる。
・・・・・・・・動けなかった。
海にだって魔物はいた。戦ったことだってあった。
だが、ヴァユはまだ命の危機に直面した経験はなかった。
(オレ、ここで死ぬのかな・・・・・・)
一瞬浮かんですぐに消えていったその一言が、ヴァユの身体から動く気力を奪っていった。
鋭い牙がヴァユの目前にまで迫っていた。
だがヴァユは、妙に静かな心境でその光景を見つめていた。
「ごめん・・・・・・・」
呟いた言葉は誰に対してのものだっただろうか・・・。
自分を心配してくれる両親と家族に対するものなのか、
会おうと約束しておきながら会えなかったアリシアに対するものなのか。
それは、自分でも判断できなかった。
「何やってんだっ! 喰われたいのかっ!?」
(え?)
魔物の牙がヴァユの身体に食い込もうとしたまさにその瞬間。
奇妙な音とともに、誰かの怒声があたりに響いた。
いつのまにか閉じていた瞳を開いたのと、魔物が弾き飛ばされたのはほぼ同時だった。
目の前には、見慣れない乗り物に乗った男が一人。
二つの車輪がついているその乗り物は、少なくともヴァユは見た事もなければ話に聞いたこともなかった。
男の方は・・・・・――
改めて男を観察しようとした時には、もうヴァユの意識は限界だった。
もともと、連続して魔物と戦い、魔法を使いまくってきたせいで、精神的にもかなり疲労していたのだ。
それに加えて傷と、腹具合と・・・・・・・・。
倒れるには充分すぎる条件が揃っていた。
もう、考える事すら億劫になってくる。
・・・・・・人がいた。
そんな安心感に包まれて。
ヴァユは傷の痛みも、まだこの場にいるはずの魔物の存在すら忘れて、心地よい眠りに堕ちていった。
―――−−--‐・・・・・・・・・・・・・。
カチャカチャと、何かを弄っている音が聞こえる。
金属っぽい感じがしたが、それとも少し違う、耳慣れない音。
「ん・・・・・・・・・・」
ヴァユはゆっくりと瞳を開いた。
まだぼんやりとする視界に、最初に飛び込んできたのはさっき乱入してきた乗り物。
その隣に、知らない男の人。
なにか作業をしているらしく、乗り物のすぐ横でゴソゴソと腕を動かしていた。
向こうはまだこちらに気付いていない。
「あれ・・・・・・・・・」
思考がまだ戻ってこない。
なにを考えたわけでもなくなんとなく出た声が聞こえたのか、彼がこちらに振り返った。
この辺りでは珍しい、黒い髪――アルカディアとファレイシアはどちらかといえば髪の色素は薄いほうなのだ。
なぜか前髪のところだけが緑色になっている。染めているのか地毛なのかまではわからないが。
それから、赤に近い茶の瞳。
「・・・・・・・・魔物はっ?」
ハッと魔物の事を思いだし、その瞬間ヴァユの意識は一気に覚醒した。
さっきの情景が事細かに思い出された。
「あ」
なんの感慨も無しに紡ぎ出された声。
「へ?」
その声の意味が掴めずにマヌケな返答を返し――
「いっ・・・・・・・・〜〜〜〜〜〜てえぇぇぇっ!!」
我知らず、勢いに任せて起き上がっていたらしいが、今更ながら背中に鋭い痛みを感じて悲鳴を上げた。
「だから言ったのに」
(何も言ってない。絶対、何も言ってないって!)
ツッコミを入れるも、痛みのあまり声は出せなかった。
思わず背中に手をやろうとしたが、痛みに蹲っている状態では背中に手が届くわけもなく。その代わりに自分で自分の身体を抱きすくめるような形になった。
「大丈夫?」
男は、ぱっと立ち上がってヴァユの隣まで来ると、ぺたんと地面に座り込んだ。
「とりあえず応急手当はしたんだけど」
困ったような顔で、荷物を見やる。
だがヴァユの思考は、まったく違う方向へ向かっていた。
・・・・・・・・・目の前に、人がいる。
いったい何日、会話をせずに過ごしてきただろう。
思い返せばたったの六日。
だが、いつでも賑やかな人の輪の中にいたヴァユにとって、それはとてつもなく長い六日間だった。
「どうしたんだ? ・・・・痛いのか?」
突然泣き出したヴァユを見て、男が心配そうな声をあげた。
「違う。そうじゃなくて・・・」
「そうじゃなくて?」
「こんなふうに人と話したの、久しぶりだったから」
男は、楽しげに笑い、安心したような表情を見せた。
「そっか。そうだよな。いくらしっかりしてたってまだ子供なんだもんな」
納得したように頷くが、ヴァユには聞き捨てならない発言だ。
だがヴァユが何か言おうとする前に、男はニッと口の端を上げてからかうような笑みを見せた。
「寂しかったんだ?」
「う・・・・・・・・・・。そんなことないさっ!」
子供扱いされて、ヴァユは強がりでしかない否定を返した。
すると男はますます楽しそうに、ニヤニヤと笑って腕を組む。
「へぇ、そう? じゃ、なんで泣いてるんだ?」
「うるっさいなぁ。これは・・・・えっと・・・ちょっと傷が痛くて、びっくりしただけだっ!」
男はそれ以上何も言わなかった。だが、ククッと喉を震わせて笑っていた。
どうやら面白がられているらしい。
ヴァユが拗ねてそっぽを向くと、男は苦笑してヴァユの正面へと移動してきた。
「悪かったよ。からかいすぎた。でも俺、君みたいな人は結構好きだぜ?」
「なっ・・・・・・・・・・」
あまりにもストレートに言われて、ヴァユの顔が一気に赤く染まった。
その様子を見てか、男はまたケラケラと笑った。
「あのさぁ・・・・助けてもらったのは礼を言うけどさ」
「ん」
「おじさん、だれ?」
ピキと、男の動きが止まった。
さっきまでの余裕が嘘みたいだ。
「お・じ・さ・ん・・・・・・・・・・・?」
「え。なんか、オレ・・・まずいこと言った・・・?」
突然の変化に、ヴァユは戸惑いつつもそう返した。
「あのさ・・・・俺、いくつに見える?」
言われて、改めて男の顔を見る。
頭の天辺から足の先までゆっくりと眺めて、
「二十一か、二・・・・・くらい?」
「それでおじさんなのかっ?」
「うん」
よほどショックだったのか、さっきの余裕はすっかり消え去っていた。
「ああ、そうか。十二歳から見たら二十歳は立派なおじさんなのか・・・・・・・」
ぶつぶつと呟きながら、くるりとヴァユに背を向ける。
どこか暗いオーラを放つ背中を眺めつつ、ヴァユは首を傾げて問いかけた。
「で、実際はいくつ?」
ヴァユに背を向けたまま。男は顔だけをこちらに向けた。
「二七」
「二七ぁっ? すっげぇ若いじゃん」
「それでもおじさんなわけだ、ヴァユくんから見たら」
責めるような物言いをされて、ヴァユはタハハと、誤魔化すように笑った。
「悪かったよ――」
言いかけたところで、ふと気付いて首を傾げた。
(・・・・・・・・・・・・・・あれ?)
「今、オレの名前呼ばなかった? それに年も」
ヴァユはまだ名乗っていなかったはずだ。
「ルーナってわかる? ルーナ=ファレイシア」
「うん」
ルーナはファレイシアの皇女、アカシャ=リィズの娘の名だ。
男はニッと口の端で笑って続きを口にした。
「アリシアは、ルーナに君と合流してアルカディアに来て欲しいって頼んだんだ。
けど、ルーナは出来るだけ早く気象調整装置のほうに行きたいって言ってさ、代わりに俺がここまで来たってわけ」
「アリシアは無事なのっ?」
出てきた名前に思わず声が高くなった。
男はにっこりと人好きのする笑みを浮かべて、
「ああ、無事だと思うよ。ただ船が出せないから移動ができないそうだ」
「そっかぁ。確かに、人がいないんじゃなぁ・・・・」
アルカディアは小さな島が集合している。船がなければ国内の移動すらままならない。
しかもアリシアは、ヴァユと違って船を動かす技術など持っていないだろう。
「で、君はなんでこんなところに? ルーシアに居るって聞いてたからけっこう探したんだけど」
「あそこじゃオレ一人で動かせるような船がなくってさ」
行こうとしている町の特徴を告げると、彼はうんうんと頷いてさっと右手を差し出してきた。
「名乗るのが遅れたけど、俺は綺羅。俺も一緒に行っていいかな?」
彼――キラの申し出には大歓迎だった。
独りなんて淋しいのはもうゴメンだ。
「もちろんっ」
ヴァユは、元気に答えて差し出された右手を握り返した。